【二上山】に関する知恵袋
【質問】
わたしは、今年の夏に学校行事で奈良に行くのですがそれで二上山のことについて調べなければいけなくなりました。なぜ、大津皇子は二上山にお墓があるのですか?なぜ、たくさんある山の中から二上山にしたのですか?教えてくださいっ!!!
【解答】
大津皇子のお墓ですが、今の教育ではどう教えているのか解りませんが、二上山にあるのは後で作られたものか違う人のお墓説があります。理由・大津皇子は謀反の疑いをかけられて殺されました。かりにも謀反人の墓を高地に造るとは考えられません。よって葛城市側の麓にある鳥谷口古墳こそが大津皇子の墓ではないかといわれています。もし、祟りを恐れて(菟野皇女、後の持統天皇が自分の実子である草壁皇子を天皇にしたいがために、実の姉である大田皇女の子供であり有能な大津皇子を新羅の僧、行心を使い罠にはめ、謀反をかけさして暗殺したがゆえに)高地に造ったのであれば早良親王のように天皇の贈り名(早良親王は崇道天皇)があるはずですがそれもありません。二上山、葛城側であった場合、大津皇子の母親、すなわち菟野皇女の母親でもある遠智娘(おちのいらつめ)の父親、倉山田石川麻呂は渡来系であるといわれています。蘇我入鹿が暗殺されたとき古人大兄皇子は「韓人が鞍作臣をころした。われも心痛む」とあります。韓人は倉山田の、自然のニュージーランドツアーに関連する説明をすると、すなわち蘇我家の先祖の名前であり、蘇我本家は鞍作臣とよばれていました。二上山の知恵袋を説明します。まず、自然のニュージーランドツアーを説明すると、二上山の知恵袋について解説すると、関裕二などは韓人を中臣鎌足と解釈し、渡来人であるといいますが学者ではない作家の「結論ありき」から肉付けした無責任な発言です。葛城は渡来人が元々住んでいた地域ですので、先祖の故郷に墓を作ったのかもしれません。二上山の場合は、紀伊で暗殺された大津皇子の遺体を大和にいれるわけにもいかず、紀伊から大和へ向かうと二上山南側の日本最初の官道「竹内街道」を通り、また西側の太子町周辺は古墳が多数あり元々が古墳エリアでした。二上山は雄岳と雌岳の間に太陽が沈む古代祭祀の山であると考えられています。今でこそ神社は穢れを嫌いますが、この時代は太陽信仰と古墳の関係が強いですので、その関係で太陽が沈む→魂が鎮められる、という考えで二上山に葬られたのかもしれません。果たして学校で認められる答えかは疑問ですが・・・
